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かっこいい人がいるからその部活は大人気、とか

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+++ BGM in my room... +++
原田 郁子 / ピアノ (2004)

 まあ、そんなもんだよねー。

 あー春だー。原田郁子の声って春だー。照明を落として、タバコ吸ってるから窓開けてて、こういう音楽聞いて、ちっちゃくて、素晴らしくて、物悲しい、スモール・ワールドさ。

 そんなスモール・ワールド的人種と、そんなスモールさなんて目に入らないような、これぞマジョリティ、ラージ・ワールド的人種と、そして世界を見渡せば文化も宗教も違い、そのワールドの構成物質から違うような人種たち。
 NHKでマヤ民族のことがあってて、彼らはなんとかっていう織物を織る伝統があるみたいで、それが結構色が綺麗で。その色自体に意味があるらしいの。緑が自然を表し、他の色もなんちゃらかんちゃら。そして赤が最も重要な意味を持ってて、それは先祖が流した血を表すんだとか。そして方角にも意味を持ってて、東は太陽が出てくるところ、光をもたらすところってことで、生命を意味し、西が暗黒をもたらすもの、死を表すと。
 まあ何が言いたいのかというと、ある人種には全く意味の無いものに、ある人種は非常に意味を見出していると。文化や宗教が違えば当たり前かと思うが、先に挙げたスモール・ワールド的人種とラージ・ワールド的人種にもやはり同じことが言えたりして。
 こちらがどんなに小さなメロディや、ひとつの音の素晴らしさを感じても、そんなもの気にもならないし、地味だ、ダサいと一蹴する人だっている。そんな些細なことにこだわってどうすんだ、と。エグザイルの名前知らんけど、なんか上半身裸で、下品な皮のベスト1枚だけ着てて、おそろしくムキムキで、サングラスをかけて、みっともないポーズをとっている写真を見せられ、「超かっこいいいいいいい」と言っている人種だっている。そんな人に「その画は知性のかけらもないね」と言ったところで、もはやそういう人は知性というものを求めてないのだ。
 例えば、僕の中で「知性」というのは結構重要なキーワードだったりするのだけれど、「知性というものが入ると、その世界の濃度が薄まってしまう」的考えの人だっているのだ。「ロックバンドにキーボードが入るのは、軟派になっていかん」という素晴らしくファシズム的、レイシズム的な考え方に似ている。
 中学ん時は意識しなかったし、高校・大学はそういう人たちを意識的に、そして生理的に排除してきた。そして周りは似たような価値観の人が集まっていた(当たり前のことか)。でも今はすごく多様な人たちと接触する。その人たちのバックグラウンドも理解する。「ああこういう性質になるのは必然なのだ」と思う。ヤンキーになる人はなるべくしてなるのだ。there is no choiceというわけだ。親が離婚しており母親は子供を食わすために働き詰めで、朝なんて起きもせず、小1から朝飯を作って、親が給食費を払ってないからと言ってばあちゃんからの小遣いから自腹を切って払う、というような環境で育ってきた連中は、楽しそうなことだったりラクそうなことがあればそちらに流れるのは、滝が上から下に落ちるように、すごく自然で当たり前のことなのだ。それまでに普通の子供が味わったことの無い苦労をしてきて、「さあ受験だ、勉強がんばれ」と言って出来る訳がないのだ。日常で擦り切れてしまってる。こういう子供ができるのは親、家庭のせいだ。子供は何も悪くない。どんな境遇であれ、親は子を育てる義務がある。離婚したのはてめえの都合だ。だから小1の子供に朝ごはんを作らせるのは身勝手の極みである。そりゃ中1で飲んだくれて、タバコを万引きするはずである。

 ある生徒のことを思い出してしまい、熱くなって脱線してしまったけど、まあ何が言いたいのかというと、いろんものを構築し、どんなに「この良さは普遍的である」と、強く思ったところで、それは全くのスモール・ワールドだ、ということである。それが通用する世界はこの広い世の中でとてもとてもとても・・・・・限られている。
 とても良い(と思っている)ものがあるとする。人というのは、その良いものは他の人と共感したいという感情がある。しかしその伝える人の人種、つまり価値観が違うとする。すると伝えられないし、伝わらない。では伝えるにはどうすれば良いかというとその人の人種を変えてしまうしかない、ということになる。これって極論じゃないと思う。もうこれしか方法がない、と思うのだ(だよね・・・?)。

 これを思ったときに、今のグローバリズムに少し同調してしまった自分がいる。それこそがグローバリズムだよな、と。インドではグローバリズムの波に飲まれて、サリーを着る人が激減しているらしい。これは欧米の機能的な洋服の良さが広まった結果、と取れる。「いや、絶対こっちのほうが動きやすいでしょー」の勝利である。過去日本の着物に起こったことと同じだ。
 欧米文化は、「我々が着ている洋服は機能的だし絶対に良い。是非広めよう」という思いでいるかどうかは分からないが、それが世界中に伝わっていることは確かだ。
 そうやって人種の違いをなくしたり、文化をなくしたりして価値観の統一を図らないと、物事の「良し」と「悪し」が決められないのだ。

 もちろん僕は文化は守るべきだ、という意見に賛成するんであろうが、それは他所の文化だからだろうか、とも思う。だって一方で僕は「自分が良いと思うものを他の人と共感出来たら」という思いがある。それとグローバリズムの根底と何が違うのだろうと思ったときに、ちょっと戸惑った。そのNHKのマヤ民族を眺めながら、絶望の淵をなぞりさえした。

 同僚のK氏が4月いっぱいで仕事を辞め、世界を巡る旅に出る。僕も彼みたいに、いろんなことをリセットしなくちゃいけないのかも知れない。この混乱の糸の端っこを掴みに行かないといけないのかも知れない。留まってちゃなんだかほどけそうにない気がする。

 「そんなことで悩まなくても」。分かって欲しいというのも確かだが、そんな意見も大いに結構。それぞ文化だ。
by swtgrlstrvllngbd | 2009-04-16 02:28