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 chrome使いってこともあり、google関連だとなかなか便利なのね、いろいろと。よってブロガー始めました。レイアウトもいろいろ細かく決めれるみたいだし、なんかポップでかわいいし。ってか定期的にプラットホーム変えたくなるよねー。

 こちら、です。


 ブログのタイトルは変わってません。お気に入りに登録などされている方がいれば(いるのか!?)変更お願いいたします。先ほど怒りのブログを一本書いてしまいました。ツイッターでやろかなと思ったけど、字数全然足りんし、あそこって空気読まんといけんとこもちょっとあるから。思う存分書いたりました。
# by swtgrlstrvllngbd | 2011-06-12 10:56
 ツイッターのほうでそのときに思ったことをつぶやいたり、良い情報、素晴らしいツイートをリツイートしたり(フォロワー少ないけど、まずは知った人に、そしてそこから少しでも広げられたら)してたけど、さて、ブログに、ってなるとその都度思ったことを書くってよりか、わりとまとめないといけないので、今回のことに関してはもう何から書けば良いのやら、って感じで。あまりに大きくて、ツイッターみたいにそのときに思ったこと、という形で出していくのがベストだな、とも思うし、2人ほどフォロワーも増えたので、見てる人は見てるんだな、とも思う。

 いきなりまとまってないのだけど、ツイッターでは書きにくい、わりと抽象的な事柄っていうか、ニュースなど見てて気付いてしまったことというか。抽象的だし、被災してない、余裕のある者の悠長な戯言と捉えられるかもしれない。

 5日目も過ぎ、ニュースの内容は悲劇の度が増してきている。日にちが経っているからこそ感じられる絶望もある。それまでは「まだ見つかってないだけ」という状況が、「見つかっていないということは・・」という状況に変わってきているし、避難している人たちにもこの悲劇が日に日に現実のものとして、生活と同化しつつある。福島県にいたっては、原発の問題もあり、目に見えない恐怖とも闘わないといけない。
 逆に、4、5日に及ぶ探索の末、再会する家族、知人などの様子も報道されたりしている。日本中の、そして世界中の有志たちが被災者のために、被災地のために行っていること、声明などを見ると何とも言えない感動が身を包む。

 「無縁社会」という言葉が浮遊している昨今、この報道されている「人と人とのつながりがもたらす感情」というのが、現代社会に足りないものの一つだな、とふと思ったわけで。「家族が見つからない」とか「家族と再会した」、「家族と連絡が取れた」、「会社の社員の無事がわかった」、「友達と再会出来た」、こういう報道には否が応にも心が揺さぶられる。ガシガシと心を鷲掴みにされる。勝手に涙が出てくる。

 被災地の方にとっては悲劇、というよりは地獄であるし、ニュースの画面からでもその様子は、もちろん全てではないが、伝わってきている。でもその何もなくなった地からガシガシ伝わってくる「人と人とのつながり」の強さ。離れてしまったり、くっついたり、そのときに生じる悲しみの強さ、幸福感の強さは、そのまま「人と人とのつながり」の強さなのだと思う。それらがあまりに強大なのでこちら側の心は揺さぶられるのだと思う。

 連日なされる報道。こういった報道ばかり見ていては気が滅入るので、元気の出る番組を流すべきだという意見もある。でも歴史上稀に見る未曾有の悲劇。目を逸らさず直視することも大事だと思う。被災地の大多数の人にとっては現実であるし、大切な人を失った人、大切な人が見つからない人にとっては、精神的、物理的の両面で地獄である。こんな時くらい、日本人くらいは同じ方向を向きたいじゃない。一致団結して少しでも被害が軽くなるように、少しでも早く復興が進むよう努力したいじゃない。単一民族国家の団結力は既にガンガン報じられているけれど。
 そういったことを除いても、時折報じられる再会の場面や、自衛隊の救出の場面などは上でも述べたように、今の日本に不足しているものをありありと感じさせる。映画やドラマの作り物ではない、現実。映画やドラマも、「人と人とのつながり」を描いているものはあるし、それなりに感動させてくれたりするが、見ている側はやはり映画、ドラマと思って見るものだ。

 これが現実。ということを子供たちにも見てほしい。悲劇の部分だけ見るのではなくて、「人と人って本当に繋がってるんだ」とか「家族って本当にこういうものなんだ」とか「私の持っている感情は間違ってないんだ」という感覚を感じてほしい。皆熱いものを持ってるはずなのに、裏切られるのを防ぐために、初めからそういう熱いものを隠して生きている。「ハイリスク・ハイリターン」でなく「ローリスク・ローリターンorハイリターン」を追い求める。市場原理の「ローリスク・ハイリターン」精神が、日常生活から人間性格まで、あらゆるものを汚染してしまっているせいだ。
 だから、なんと言うか、「君のその感情は間違っていない。家族が大事だとか友人知人を大切に思うことは当たり前なんだ」ということをわかる機会が、この一連の報道の中にあると思う。
 悲劇の中に光る人と人とのつながり。これはこの悲劇が産み落とした未来に残る希望の光だと思う。ナカカズも言ってたじゃない「闇の中の光はほら、強い」って。

 んー、まとめんと、とか冒頭で言いつつまとまってねーなー。なんか追加で言いたいことあればまた書きますし、「あんときのあの発言はやっぱこうでした」とか言うかも知んない。まあいいや。一人部屋だし。
 ナカカズって書いたらナカカズ聞きたくなってので貼ります。上の歌詞はセブンスターだけどこっちが元気出そうかなって。歌詞は勘違いしてほしくないけど、take action!みたいな感じで捉えてくれれば。





p.s.
 一応告知されてたんで、義援金募集バナー貼っておきます。日本赤十字社に送られるみたいです。
もちろん「やれ」ってことで貼ってんじゃないから。いろんな形があると思うし。現地行って、現地の希少な食料食い散らすくらいなら、「何もしないけど、ちょこっと節電」のほうが貢献だ。
ただ募金は「最良の選択肢」の一つだと思う。個人的に。


# by swtgrlstrvllngbd | 2011-03-16 04:45
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。
 でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解出来ないし、あんたにも理解出来ない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。」

 鼠はビール・グラスに目をやったまま、もう一度首を振った。
「俺にはどうもわからないよ。」

「いいんだよ。わからないで済めば、それに越したことはないのさ。」
 ジェイはそう言うと、暗いガランとした客席に向けて煙草の煙を吹いた。


*「1973年のピンボール」92頁より
# by swtgrlstrvllngbd | 2011-02-13 01:22



なんでしょね。昔っから椎名林檎って僕の涙腺を刺激するんですよ。自分でも訳が分かんないですよ。今まで誰にも言ったことないですがね(たぶん)。同じような人いらっしゃいますでしょうか・・・。
んでこの「閃光少女」なんですが、歌詞がね、ヤバいのですよ。声でもヤバいのに、歌詞がすごいとなるとね。さらにね、この歌詞をさ、全力で生きてる教え子なんかに重ねるとね、ヤバいんですよ。もしくは全力で生きてない教え子に「こんなふうに生きろよ!」とも思ったり。失ったものに何かを感じるのでしょうか。それともまだ生きているのでしょうか。

「今日現在(いま)が確かなら万事快調よ
明日には全く憶えて居なくたっていいの
昨日の予想が感度を奪うわ
先回りしないで

今日現在(いま)を最高値で通過して行こうよ
明日まで電池を残す考えなんてないの
昨日の誤解で歪んだ焦点(ピント)は
新しく合わせて

切り取ってよ一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
私は今しか知らない
貴方の今に閃きたい
 
 
今日現在(いま)がどんな昨日よりも好調よ
明日からそうは思えなくなったっていいの
呼吸が鼓動が大きく聞こえる
生きてる内に

焼き付いてよ一瞬の光で
またとないいのちを
使い切っていくから
私は今しか知らない
貴方の今を閃きたい
これが最期だって光って居たい」
# by swtgrlstrvllngbd | 2011-02-06 01:56
 休みの日はまあ読書してるときもありますが、最近は専ら内田樹氏です(お前一体何冊読んでんだ、と言われそうですが、読むのが遅いのです。それだけです。5冊くらいです)。

 「街場のメディア論」ってのを読んでて、コミュニケーションの回路が立ち上がる際の過程を書いていたのですが、それは、
 「これは自分に向けられたものだ」もしくは「これは自分への贈与物だ」と勘違いし、それに対するリアクションもしくはお礼からコミュニケーションが始まる、というもの。

 もう目からウロコ(内田氏によって目からウロコさせられるのはもう何度目だろう・・)。
 僕が校において心がけていることの一つが「公平さ」である。従って僕が生徒に与えるものというのは量や質的に同じ(もちろん、生徒によっては「与えない」ことで「与えている」生徒もいる←出来る子の例だけど)である(つもりである)。しかし、受ける生徒側によってもちろん取り方が異なる。「はあ。」と言って気のない返事する子もいれば、「もう何コレ!いじめようとしてるでしょ?」となる子もいる。僕は公平に与えているつもりだ。その公平さに気付かず、後者は「私自身に向けられた嫌がらせ」と取る。どちらの場合にコミュニケーションが発生するかは自明の理である。
 こういった「これは自分に向けられたものである」と勘違いする能力というのは、上の場合だけでなく、生活全般に置いてコミュニケーションを発生させやすい。そりゃ行き過ぎれば大阪のおばちゃんみたいに、テレビで全国に向けられたものでも「私に語りかけてる!」と思い、芸能人を見れば長年の友達のように接するのであろうが、行き過ぎようが行き過ぎまいが、この能力こそがコミュニケーションを発生させる能力なのではないか、と内田氏は書いているのである。

 ぐおー。
# by swtgrlstrvllngbd | 2011-01-31 20:22